エラい肩書きは蜜の味
先日、政策金融公庫に事業融資の相談へ行った。独立し一人で仕事をするようになってから長いこと経つが事業用のお金を借りたことはなく、制度自体もよくわかっていなかった。金利や金額、期限がどんなものなのか、確認がてら話を聞きに行った。その初めての相談で一つ新鮮な”戸惑い”を体験した。
話を聞いてくれたのは多分僕より若い年恰好の男性。その彼が使う言葉で、
「社長様の場合ですと…」
「社長様の事業においては…」
一瞬なんのことか分からず「え?」と思ったのだが、すぐに理解できた。社長と呼んでいるのは僕のこと。中小企業への融資をメインでやっているこの場所で、金策に来る人間の多くが会社の社長なのだろう。ここではお客への二人称は「あなた様」や「お客様」ではなく「社長様」と言うのだ。
(えぇーー俺が社長ーーーww!!??)
これまでフリーランスで活動しながらも、呼ばれたことのない「社長」という言葉の響きに、こそばゆさを感じながらも何となくちょっと浮き足立ってしまった。
(ほうほう、俺も社長かぁ…)と言った感じで。
さて、話は少し飛んで有名な「肩書き」についての実験の話。スタンフォード監獄実験というのをみなさんはご存じだろうか。詳しくはwikipediaを見て頂きたいのだが、概要はこんな感じ。
無作為に集められた学生らが看守役と囚人役に分かれ、模擬的につくられた刑務所で過ごす。はじめは実験ということもあり仲良くしていた被験者たちが、徐々に看守・囚人の役に染まっていき、看守は囚人を虐げるようになる。徐々にそれがエスカレートし最後は暴力に及ぶところまで行き実験は中断する。人は役職や肩書きに応じた(縛られた)行動を取ってしまう、ということを証明した実験。
冒頭の社長って呼ばれて、ちょっと浮かれた気持になっちゃった時、この話を思い出した。
人から与えられる肩書きというのは諸刃である。安易に手に入れた肩書きや役職はとくに注意した方がいい。エラくなってもないのに、付けられた”単なる符号”に染まり他人に威張ったり、勘違いしてみたり。社長と呼ばれて浮かれてしまうのも正にそれだ。実際は1㎜も賢くなっていないのに、周りから肩書きを与えられていい気になってしまう。とても危険なことだ。
一方で、肩書きが人を成長させるというのももう一つの真実であろう。自分が憧れた役職についたとき、または周りから期待をされ新しいポジションを与えられた時、これまでにない使命感や責任感を感じ、職責を全うし成長できる人もたくさんいるだろう。
要は使い方次第だ。誰もが無意識に「肩書き」に縛られる以上、人間のその性質を理解し良い方向に向くようコントロールするのだ。人間なんて案外単純にその響きに染まってしまうものなんだと肝に銘じよう。そして特に安易に「偉い称号」を与えられてしまったとき、言動に驕りがないか、まわりへの感謝を忘れていないか、よくよく自分を振り返るようにする。
逆に良い方向で使えるならば、それを自分のエンジンにして最大限利用してしまうのだ。社長という響きで頑張れちゃうんだったら安いものだ。「社長になった俺、イケてるわ~」と思って気持ちよく仕事に臨むのだ。それで成果を生み出せるならあえて社長でも代表でも名乗ればいいじゃないか。
最近巷で世間を賑わせているゴーストライターをつかった作曲家(風味)の人も、「現代のベートーベン」なんて言われて、それが気持ち良くなっちゃったのかも知れない。実力がないことは自分が一番分かっているのに「大先生」と持ち上げられ本人もまんざらじゃなくなってしまったのか。引っ込みがつかない焦りより、気持ち良さが勝っちゃったのかな。
いずれにしても、簡単に得られる肩書きには、十分気を付けた方が良さそうだ。
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