本日駅で見かけた人の話
こんばんは。
電車の中で割と席を譲るほうだ。妊婦のマタニティマークを付けてる人が居たら、離れててもとっ捕まえるレベル(どんなやw)。そのアンテナの感度に関しては、やや自信がある。
そんな私がたまに困るのは、ただ太ってる人と妊婦は混同しがちだということだ。若く健康でポッチャリした女性に迂闊に席は譲ってはいけない。「は?ワタシが妊娠してるって思ったってこと!?」などと余計な怒りを買いかねない。それでは逆マタハラだ。
「でもそもそも、そんなに譲りたいなら初めから席に座らなければいいんじゃね?」と聞こえて来そうだが、そうではない。確保しておいた分を他に必要としている人に回す、ということに意味があるのだ。自分が席を確保してない状態では、然るべきところに配分を行きわたらすことができないからだ。
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さて、話かわるが、今日駅で盲目で車いすの男性を見かけた。一瞬すれ違った際に見えたのだが「目が見えません 足も不自由です」というようなメッセージが書かれた札を下げていた様に記憶している。
急いでいたので特段何か話かけるでもなく、手助けをすることもなく横を通り過ぎたのだが、少し離れたあたりではたと気づく。
「盲目で車椅子…これってものすごいハンディじゃないか??」
特にその彼と話をしたわけでもないし、詳しい病状は分からない。ただ、車いすに乗っていた上、盲目の人が持つ白い杖を持っていたことだけは確認できた。
車いすで生活する人も盲目の人も、いずれか一つハンディを持っているだけでも、ものすごく大変なことだろう。それが二つも重なっているなんて一体どれほどのことか。駅で切符を買って電車に乗るだけだって、多分想像を絶する困難さであろう。
駅構内で見かける地面の黄色いやつ(調べたら「視覚障害者誘導用シート」というらしい)も自身の足では確認できないので、杖で探らないと分からない。ホームへ向かうのはエレベーターだったとして、それがどこに設置されてるかの案内が読み取れない。券売機の点字案内だって手が届かないかもしれない。ホームに落っこちゃう危険だってあるはずだ。
そしてそんな状況下で、同伴する人もなく彼は一人で行動していた。(ホームに行くときは駅員さんが同行しているのかもしれないが。)
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これを書いていて思い出したが、以前のマンションの同じ階に盲目のおじいさんが住んでいた。名前も知らなかったが顔見知りではあったので(といってもこっちが一方的に知っていただけだが)、駅で一緒になった時なんかは話しかけてマンションまで一緒に帰ったりしたこともあった。
住んでいたのが碁盤の目のような区画が整理されたエリアだったので「慣れた駅からの家までの道でも、曲がる箇所を間違うことがある」と彼は言っていた。あと雨が降った時は雨音で車が近づいてるのが分からず、轢かれそうになることもしばしば、なんて話も聞いたことがあった。あっけらかんと話してたのが印象に残っている。
そんな彼との会話の中で、「こうやって手を引いて誘導してくれるのは助ります」と言ってくれたので、(ああ、ならばよかった。やっぱりそうなんだ。)とこちらもほっとしたことを覚えている。
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翻って、今日の車椅子の人に僕は何かをすべきだっただろうか。進む方向も反対だったし、特に困っている様子でもなかった。「大丈夫ですか?」って聞いたら「ええ、べつに大丈夫ですけど…?」って冷たく断られるかも知れない。
それでも、ちょっと考えてみただけでも色々困難なことはあるように思える。二つのハンディが重なっているならなおさらだ。ならば「やあこんにちは、調子はどうですか?」ってな感じで話かけてもよかったのかも知れない。心配ご無用と言われればそれはそれ。失礼しました、と立ち去ればよいだけだ。
ただ周りの人間が思っているのとはウラハラに、ちょっとした手助けを求めているってことはあるのかも知れない。そしてそれはこちらが歩み寄らなければ分からない。「手助けが必要です!」というアラートを上げるのだっておそらく勇気がいることだろうから。だったらそれは元気な僕が気づいてすべきことなのだ。
良心をもって何かできないか?と思いつつどうすればよいか分からないで、行動にうつせないって人はたくさんいるだろう。「断られたら恥ずかしいし…」とか、「余計なお世話かも…?」とか思ったり。
しかしその場合に自尊心がキズつくのは自分だけであり、そしてそれはさして痛くもないはずだ。そんなことがあるのは承知の上で、変に気負いしたり、気おくれしたりせずに、カラリと話しかけられる人になりたいものだ。
そして。
それと同時に、妊婦なのかそれとも妊婦風味の人かの識別できる眼も養わねばならない。
まだまだ精進は続く。
おしまい
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